人はだれでも、「どのように生きるべきか」と問いながら、生きています。ちょっとだらしなく生きている人も、かなり危ないことをして生きている人も、心のどこかで、こう問いながら、生きているはずです。そしてどんなに他人に影響されようとも、強制されようとも、自分らしい生き方、自分の固有性は、自分で決め なければなりません。
念のためにいえば、人の固有性は、その人の身体を構成している物質ではありません。その物質、たとえば、タンパク質やカルシウムは、何日か前までは、その人が食べる前のトマトだったり、アジの干物だったりするからです。
また、個性的な発言や服装でもありません。流行をただ追い求める人に自由はありませんが、そうしていないというだけでその人が自由であるかいえば、そうはいえないからです。
またそれは、職場でも地位でもありません。「私らしさ」を自分で求めてあちこち転職しても、自分の固有性はみつからないでしょう。
人の固有性は、その人の倫理的決意によって構成されています。「私が/を支えるのはだれか」という問いに対する答えによって、おのずと生まれてきます。そしてこの問いは、私が自由であるからこそ、問うことができる問いです。
自由であることは、外から認識できることではありません。認識できるものは、法則や物質のようなモノだけです。自由は私の状態であり、私はモノではありません。自由という私の状態は、私の内的な経験として自覚されることです。
それは、私が私であることを知ること、端的にいえば、少しだけでも、通俗的な利益成果追求の世界の外に踏み出して生きている自分を知ることことです。真の自分を知っていることが、私であること、自由であることです。自分で自分のことをすべて決めているから、私であるのでも、自由であるのでもないのです。