教育コラム 2014.12

無力を嘆くこと――聖夜に寄せて

 なかなか成績が上がらなかったり、自分が思っているほど周りから評価されなかったりすると、私たちは、「あー、ダメだ」と、自分の不甲斐なさ、無力さを嘆きます。
 しかし、そんな嘆きは、人の心を震わせたり動かしたりしません。その嘆きが、「本来の自分」を勝手に夢想し、それに「現実の自分」が合わないからといって、「現実の自分」を卑下することだからです。それはただの自己満足の失敗です。その嘆きは、どれほど極まろうとも、人を導く光になどなりません。愚痴になるだけでしょう。

 傷んでいるだれか、たとえば、幼い子どものために力になりたいと思っていても、いろんな事情でそうできず、悔しくて、自分の無力さを嘆くことがあります。
 そうした嘆きは、ふだんは隠されていて、人になかなか気づかれないのですが、人の心を震わせ動かします。その嘆きが、人を支え助けるための能力のなさを憂うことだからです。それが、自分のことよりも人のことを優先し、そのことに何の理由もつけずに、ただできない自分を責めることだからです。それは良心の呵責です。その嘆きは、人を引き寄せ、結びつけ、その心をともに震わせる響きとなります。

 自己満足の失敗がもたらす嘆きは、他者支援の失敗がもたらす嘆きとはまったく異なります。前者は愚痴にしか聞こえず、後者は人の心を震わせる呼び声となります。私たちの心は、基本的に、人を無条件で支え助けようとするようにできています。しかし、そうすることはとても困難ですから、私たちは、たびたび良心の呵責を感じます。ただし、その声は、私たちを突き放す声ではなく、私たちとともにある声です。

 クリスマスですから、聖書を引きましょう。新約聖書のなかに「マタイの福音書」という、だれが書いたのかわからない文書がありますが、そこに「自分の命を見いだす人は、それを失い、自分の命を私のために失う人は、それを見いだします」と記されています。いろいろな解釈がありますが、こう解釈してみましょう。「自分のことだけ考える人は、本当の自分を失い、自分のことよりも人のことを気遣う人は、本当の自分を見つけます」と。

教育顧問 田中智志
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