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子どもたちの学びにおいて、何かを覚えることは、欠かせない営みです。漢字の読み方・書き方、九九、都道府県名や県庁所在地などなど。なかには、なかなか覚えられず、困るものもあります。
一般に、何かを具体的に経験することは、かならず覚えることをふくんでいる、と考えられています。経験をつうじてしっかり覚えたら、はっきり思い出させる、と。
こういう経験すなわち記憶という考え方は、おそらく18世紀に考え出されたもので、古代からあった考え方ではありません。だれが最初に考えたのか、はっきりしませんが、いちばん有名な論者は、ヒューム(David Hume)という、スコットランドの哲学者でしょう。
経験すなわち記憶という考え方は、かなり大雑把で、大事なことが語られていません。具体的に考えてみましょう。私がクロワッサンを食べていることは、「これはクロワッサン」「いい香り」「イチゴジャムに合う」といった思考とは別のことです。食べていること自体は、言葉をはるかに超えているか、言葉にとても届かないか、のどちらかです。
私が「これは‥‥」と思うのは、食べようとしたあとか、ちょっとかじったあとか、とにかくふりかえって、です。私たちは、0.1秒よりも(?)短い前のことを思い、ふさわしい言葉をさっと探しだし、あてはめます。それこそが、「思い出す」「覚える」ということです。何かを言葉・かたちとして思い描くことが、過去形でしかない「経験」を生みだし、いわゆる「記憶」を生みだすのです。
哲学者の大森荘蔵は、過去はつねに作られている、といいます。記憶は、そのままのかたちで脳のどこかに仕舞い込まれているのではなく、ことあるごとに制作される、と。
したがって、暗唱したり、同じ漢字を繰りかえしノートに書くことが覚えることではなく、繰りかえし思い出すことが、覚えることです。つまり、大事なことは、覚えようとしないで(!)、繰りかえし思い出すことです。
いっても仕方ないことですが、ついでにいえば、嫌なことが忘れられないのは、何度も思い出すからです。