教育コラム 2015.11

皮肉ではないアイロニー

 「アイロニー」といえば、「皮肉」を意味し、「アイロニカル」といえば、「皮肉っぽい」を意味します。「あの人の喋り方は、アイロニカルだ」といえば、「あざけり」「あしらい」のニュアンスを含んでいるという意味です。どちらも、あまりいい意味では使われない言葉です。
 まじめに語っているのに、「いやー、お説、ごもっとも」と、軽くあしらわれたり、あざけられたりすれば、笑いものにされたようで、いやな感じがします。一般に、皮肉としてのアイロニーは、意図的に人の心を傷つけるための話法になっています。

 ところが、このようなアイロニーは、かなり新しい意味のそれです。古い時代では、この言葉はいい意味で使われます。アイロニーは、もともとラテン語の「イロニア」(ironia)、もっとさかのぼれば、ギリシア語の「エイロネイア」(eironeia)です。たとえば、ソクラテスは、人を真理に導く方法として用いた問答法を、「エイロネイア」と呼びました。
 それは、たとえば、こんな感じでしょうか。人が「良心は経験から作られた記憶です」と言うと、「どんな経験?」と問い、その人が「よいことをして誉められた経験です」と答えると、「どうしてよいことをして誉められると記憶するの?」と問い、「気持ちがいいからです」と答えると、「どうして誉められると気持ちがいいの?」と問い、相手が「う‥‥」とつまり、「えーと、それはたぶん遺伝子が決定することで‥‥いやいや、‥‥」と、自分が、自分の知らないことを前提に知っていると考えていたことに気づく、みたいな。
 
 エイロネイアは、けっして相手をやりこめるための話法ではなく、相手が前提にしていながら気づいていないことを、相手にわからせるための話法です。それは「産婆術」とも呼ばれています。1958年にドイツの哲学者オットー・F・ボルノウは、それを「教育的イロニー」と呼びました(『畏敬』)。今風にいえば、「主体的な学び」といえるでしょう。
 しかし、このエイロネイアは、大切なことを省いています。それは、自分を超える「外」からの「呼び声」です。さきほどの例でいえば、「良心」が、自分の「外」から届けられる「呼び声」でもあることです。人が自分の意思や意図を超えて聴き従うほかない「呼び声」、無視するとあの「良心の呵責」に襲われる「呼び声」です。

教育顧問 田中智志
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