教育コラム 2016.04

親の背中、神の背中

 「親の背を見て子は育つ」ということわざがあります。このことわざは、「子は親を映す鏡」ということわざと同じと見なされています。すなわち、親と一緒に暮らしている子どもは、親のよい面もわるい面も自然に身につけてしまうから、親は、ふだんから自分の言動に気をつけるべきだ、という意味している、と。本当でしょうか。
 私は、「親の背」ほど、私たちの心を衝き動かすものはない、と思っています。そこに見えるのは、たしかに自分の親の背中ですが、その背中が暗示しているものは、言葉にできない喪失の悲しみや、喜びのなかにあるつらさや、懸命な努力がむくわれない切なさではないでしょうか。一言では語りえない想いとともに生きる姿ではないでしょうか。

 ヨーロッパの思想では、「神の背中」(posteriora Dei)という言葉が使われます。もともと、マルティン・ルターの言葉です。さかのぼれば、聖書の「出エジプト記」には、「私の背中」という、神の言葉があり、ルターは、この言葉を思いながら、この言葉を使っています。
 ルターは、人に見えるのは「神の背中」だけだ、といいます。つまり、神は、大切なことを明示的に語らない、と。イエスの言葉は大切なことを語ってくれますが、肝心なところは謎めいています。しかし、ルターによれば、人は、イエスの言葉を感受する力、信じる力を授かっています。そして、その信のなかで、人は、どんな苦難にさらされようとも、その悲しみやつらさとともに、人を無条件に愛する心をもつことができる、といいます。

 私たちは、さまざまな苦難に直面し、悲しい、つらいと感じますが、そうした想いをさっさと忘れてしまわず、そうした想いとともに生きています。その想いは、たとえば、詩歌、音楽、思想として表現され、他の人に伝わり、想いの連鎖を生みだします。その想いの連鎖のなかで、私たちは深いところで支えられ、生き生きと生きる力を得ています。
 そうした想いをさっぱり切り捨てて、ドライに合理的に生きることもできそうに見えますが、無理です。私たちの心からそうした想いが消えることはありません。人は、どこまでも想いを携え、想いとともに生きます。そうした想いを無理やり無視し、利益や世間体を考える人に対しても、私たちは、その人の背中を見て、幾ばくかの想いを感じるはずです。

教育顧問 田中智志
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