教育コラム 2016.06

忘れ去られるフィロソフィア

 人が本当に理解すべきことは、何でしょうか。本当に理解すべきことが、ほのかにでもわかれば、人はそれに向かって真摯に考えるはずです。しかし、それがまったくわからなければ、人はそうした真摯に考えることを知らないまま、生きていってしまうでしょう。
 はるか昔のギリシアで、そうした、真摯に考えることを知らない物知りが、「ソフィスト」と呼ばれました。ソフィストは、さまざまな知識から、最新の使える知識だけを取り出しました。彼らの得意技は、探究ではなく、詮索でした。
 そして人は、どうしても最新の使える知識を求めますから、ソフィストは、引く手あまたでした。ソフィストは、自分の知識を他人にひけらかすことに快感を覚え、人びとは、彼らの物知りぶりを見世物にして、楽しみました。
 ソフィストは、人が本当に理解すべきことを認めませんでした。そうしたことを真摯に探究することを否定し、嘲笑しました。「そんなものは幻想だよ」と。人が考えるという営みがいたるべき根柢をもつかどうかなど、彼らにとっては、無駄話でした。

 本当に理解すべきことを探究する人は、真摯に努力します。すべての通俗的なもの・平均的なものは、彼(女)らの真摯な努力と無縁です。彼(女)らが求めるものは、知(ソフィア)ですが、その知は、閲覧され、掲示されるような知識ではありません。それはまた、財産のように所有されるものでも、漁りまくって獲得するものでもありません。
 人が本当に理解すべき知は、愛されるものでしょう。この愛される知を愛することは、古代ギリシアで「哲学」(フィロソフィア)と呼ばれました。この愛されるべき知は、すべての根柢についての知です。アリストテレスという、古代ギリシアの「哲学者」は、それを「存在」(オン)の知と呼びました。この「存在」は、すべての物事、人びと、思考の根柢です。
 アリストテレスは、この「存在」を深く考えました。そして、彼の議論を受けて、のちにヨーロッパの多くの人も、この「存在」について深く考えてきました。しかし、そのだれもが、自分の努力が充分であったとは思わなかったでしょう。その探究は、終わりなき営みだからです。
 私は、今、教育の世界で、この終わりなき営みが忘れ去られようとしている、と感じています。そしてそれは、教育の営みを、本来のその目的から遠ざけるのではないか、と危惧しています。

教育顧問 田中智志
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