教育コラム 2017.05

人に「畏敬の念」を抱く

 子どもたちに「畏敬の念」を教えるために、道徳教育において、あたかも事実であるかのように、「人間を超える超自然的な何かが、この世界を動かしている」とか、「畏れるべき超越者が、私を見ている」と教えることは、危険なことだと思います。そうした「超自然的な何か」「畏れるべき超越者」が、たんなる空想の産物だろうからです。
 したがって、そうした超自然的な価値を子どもたちに教え込むために「授業研究」を行うことは、公共活動としての学校教育をになう教師にふさわしくないと思います。

 たとえば、ボルノーのいう「畏敬の念」は、あくまで人であるイエスに対する心情です。なるほど、イエスは「神」と見なされましたが、それは、彼が通俗的価値を超えて、他者への無条件の愛(隣人へのアガペー)を語り行ったからです。彼は、「神」だから通俗的価値を超えたのではなく、通俗的価値を超えたから「神」にされたのだと思います。おそらく、イエスが人だったからこそ、人は、彼の言葉・活動に驚き、彼を畏れたのではないでしょうか。
 ちなみに、彼が「神」と見なされたのは、彼が死んでから三〇〇年以上たってからです。

 人が「無条件の愛」のような、通俗的価値を超えた気高い活動に心を揺さぶられることは、少なくないはずです。おそらく、ほとんどの人のなかに、通俗的価値を超えてよりよく生きようとするベクトルがあるからだろう、と思います。
 驚くべきことは、私たちの多くにそうしたベクトルがあることでしょう。なぜそのようなベクトルが人に内在するのか、たぶんだれにもわからないだろうと思いますが、それは、およそ普遍的な事実として認めてよいと思います。
 人は、「何か畏れるべき何者かに見られているから、悪いことをしない」のではなく、自分のなかに〈よりよく生きようとする〉ベクトルがあるから、ささやかにであれ、大胆にであれ、よりよいことをしようとするのです。

 超越者への「畏敬の念」がないと道徳は成り立たないなどと考えずに、何が私たちのこのベクトルを妨げているのか、それを考えることのほうが大事ではないでしょうか。必要なものは、およそそろっているが、ただそれをうまく発現させる情況がないだけだ、と考えるほうが。

教育顧問 田中智志
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