教育コラム 2018.02

知るとできるを支える経験

 「知る」ことと、「できる」ことは、同じではない、とよく言われます。「知識」があることと「能力」があることは、たしかにちがいます。たとえば、自転車に乗ることを頭に思い描くことと、実際に自転車に乗れることは、同じではありません。
 知識があることは、しばしば「頭でっかち」と形容されるように、「それだけじゃダメでしょ」と、考えられてきました。これに対し、スケートであれ、ピアノ演奏であれ、大工仕事であれ、何かがよくできることは、「それだけでスゴイ!」と考えられてきました。

 むろん、まさに知識が求められている場面もあります。たとえば、理科のテストで、「暖流と寒流の違いを説明しなさい」と問われるとき、必要なものは、海流についての知識です。いわゆるテスト、試験などは、短答式であれ、記述式であれ、まさに知識を求めています。
同じように、まさに能力が求められている場面もあります。たとえば、妻に「裏山の杉の木を切って」と頼まれるとき、私に必要なものは、伐採業者の電話番号ではなく、実際にチェーンソーを使える能力です。自分で何か活動するときには、まさに能力が求められています。
 しかし、能力と知識は別々のものではないのです。知識がなければ、能力は成り立ちません。しかも、その場合の知識は、多くの場合、言葉になっていない知識です。チェーンソーは、説明書を読めば、始動も停止もできますが、突然、動かなくなったときの対処は、書かれていません。そのときは、経験(直観)としかいえない知識が必要です。わかっているけれども説明できない経験は、能力の根底に横たわっている事実です。

 「意味」といえば、辞書に書かれているような説明、と思ってしまいますが、本当の「意味」は、言葉で説明できない経験ではないでしょうか。
 ヴィトゲンシュタインという哲学者は、『哲学的探究』という本で、「語の意味は、言語活動におけるその使用(use)である」と述べています(§43)。ある言葉が適切な場面で適切な用法で使えるということは、その言葉について言葉で説明できない経験があることを指しているからです。
 この言葉で説明できない経験が豊かであればあるほど、知ることもできることも増えていきます。さて、この経験は、どうすれば豊かになるでしょうか。

教育顧問 田中智志
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