教育コラム 2019.01.

感動の本態

 そもそも「感動」とは、どういう経験でしょうか。暗い内容の作品でも、人を感動させることを考えれば、快感(肯定性)は、感動の本態ではなさそうです。
感動は、いろいろなタイプに分類されます。たとえば、自分の経験を越える驚異(「すごい!」)のそれ、自分の目的が達成される充足(「やった!」)のそれ、などです。またたとえば、心に染み入るようなそれ、心が沸き立つようなそれ、など。感動の情動についていえば、喜び・哀しみは、感動になりますが、怒り・恨みは、感動になりそうにありませんね。
 ともあれ、感動をあれこれ分類しても、感動の本態はわからないと思います。さまざまな感動の種類は、感動をもたらす誘因・情況の違いにすぎません。感動の本態は、おそらく分類・整理を越えた、心と何か・だれかの相互的・交感的なはたらきでしょう。

 私なりに規定すれば、感動は、私の「自己」(もっともらしくあれこれ考えること、いわば、合理的思考)を越えて、私が何か・だれかと共鳴共振することだ、と思います。何かを新しく体験し、「これは自分を高めるぞ」と計算して、感動するのではなく。
 いいかえれば、感動は、だれかによって操作的に作りだされるものではなく、いつのまにか自分を触発し、心を動かすものです。たとえば、英語で「私は感動する」は、I am affected や I am movedです。直訳すれば、「私は触発される」「私は動かされる」です。
 共鳴共振は、人が何かと相互に浸透しあうことです。それは「知的な直観」と言い換えてもいいでしょう。たとえば、ジル・ドゥルーズは、『ベルクソンの哲学』という本の最後で、「感動(emotion)とは、知性において直観が生じることである」と述べています。

 感動の本態をとらえるためには、人のとらえかたを変える必要があります。端的にいえば、人を力としてとらえる必要があります。力は、他の力を触発し、他の力によって触発されることで、強まります。この「諸力の関係」こそ、人びとの本来的な在りようではないでしょうか。
 重要なことは、人がどのようなカであるかではなく、自分の触発性を保持し続けることです。どんなに弱くても、自分の触発性を保持するなら、その人は、弱者ではないと思います。他者を触発し、自分を触発しつづけるかぎり。

教育顧問 田中智志
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