教育コラム 2015.2

理性は幸福になるために役立たない?

 「理性」という言葉は、いろいろな意味がありますが、一般には、「理性的」という形容詞が示しているように、「冷静で、怒りや不満といった感情や、金銭や性欲のような欲望に流されないこと」を意味しています。

 日本の教育学では、大正時代から、「自然の理性化」が謳われ、感情・欲望(=「自然」)に流されず、社会で広く認められた価値規範(=「理性」)を体現する生きることが、人の正しい生き方である、とされてきました。「自然の理性化」は、東北大学や東京文理科大学で教授を務めた教育学者、篠原助市(1876〜1957)が最初に用いた言葉です。

 こうした日本の「理性」概念は、ヨーロッパから持ち込まれた概念です。英語でリーズン(reason)、フランス語でレゾン(raison)、ドイツ語でファーヌンフト(Vernunft)といいます。さかのぼれば、ラテン語のラティオ(ratio)です。このラティオは、もともと「比率」「計算」を意味し、天秤が釣り合っていることを指していました。

 哲学思想の世界で「理性」といえば、すぐに思い出されるのは、ドイツの哲学者、イマニュエル・カントが描きだした「理性」でしょう。カントは、ある著作のなかで、こんなことをいっています。「理性よりも本能に従ったほうが、‥‥幸福になるうえでは、はるかに確実な成果がえられるだろう」と(『人倫の形而上学の基礎づけ』第1章)。つまり、理性は、だれもが求める「幸福」をえるうえで、いちばん大事の要因とはいえない、と。

 しかし、カントの言いたいことは、「幸福」になるために「理性」は役に立たないということではないのです。彼は、「理性」は「幸福」よりももっと大事なことをするためにある、といいたかったのです。それは、イエス・キリストのように、通俗的な規範や不条理な現実に負けず、諦めず、敢然と人を愛することでした。そのような生き方を、カントは「道徳性」と呼びました。私たちの使う「理性」の意味は、カントの「理性」の意味に比べると、ずいぶんと凡庸な感じがしますね。

教育顧問 田中智志
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