教育コラム 2015.3

沈黙

 「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉があります。現代では、「沈黙」は、利用価値のない行為、自分の負けを認める行為と思われていますが、会議で自己防衛のためにあれこれ弁明したり、ネット上で自己顕示欲のままに自己主張を繰りかえしたりするよりも、自分の立場をしっかり把握するためにじっと黙っていることは、たしかに有益なことです。この言葉は、もともとは、英語のことわざの翻訳であり、もっとさかのぼれば、Sprecfien ist silbern, Schweigen ist golden というドイツ語に由来します。

 しかし、同じ「沈黙」でも、マックス・ピカートのいう「沈黙」は、こうした、どこか損得・効用にかかわる「沈黙」とは違っています。彼は「沈黙は、そのなかに住む、もろもろの事物に、沈黙の有する存在の力をわかち与える」といいます(『沈黙の世界』)。つまり、私たちの言葉が、いかに儲けるか、勝ち残るか、という意識に染まっているときに、そうした言葉を使わなければ、いろいろな事物も、そして人も、ゆっくりとその本来の姿を示す、といいます。

 ピカートはまた、同じ本のなかで、「ふたりの人が話し合っているとき、そこには、つねに第三者が居合わせている。‥‥この第三者とは、他でもない、沈黙である」と述べています。私たちが、だれかと話しているときに、私は、あなたと喋っていると思い、あなたと自分のことを考えます。しかし、ピカートは、そのときに、「沈黙」が私たちの言葉を聴いているし、無言のまま話しかけている、といいます。この「沈黙」は、いいかえれば、無言のまま私たちに呼びかける良心の声です。カントなら、それこそが「理性」であるというでしょうか。

 マスコミでも、ネット上でも、「沈黙」は、無視されているように思われます。だれもが流暢に語ろうとし、説得的に論じようとし、ときには他人を貶め、自分を誇ろうとしているように。そうだとすれば、その饒舌な行為は、自分を大事することように見えて、じつは少しも大事にしていないのです。それは、私たち一人ひとりが──ときどきかもしれませんが──まさにより善く生きようとしていること、つまり真の自分への愛を無視することだからです。

教育顧問 田中智志
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