教育コラム 2015.05

気遣いとともに

 現代の日本には、さまざまな社会問題があります。エネルギーの確保、少子高齢化、格差・貧困、地域共同体の崩壊、大学入試改革などです。これらの問題は、法律・憲法にしたがってすっきりと解決できるような問題ではありません。法律・憲法にしたがってあれこれと議論はできますが、はっきりとした答えが出せない問題です。

 もちろん、個人として、これらの社会問題に「意見」をもつことはいくらでもできます。しかし、それらの「意見」は、「それは、あなたの意見でしょ」といわれれば、うっと詰まって、せいぜい「あなたのだって、ただの意見でしょ」とやりかえすことしかできないでしょう。となると、あとは、数の力、説得力などで、自分の意見の正当性を確保することになります。これが、いわゆる「デモクラシー」すなわち多数決という現実です。

 こうした、数の力や説得力を頼みとする意志決定は、もっともな方法であるように見えて、じつは、大事なことを見落としています。それは、私たち個人が、じつは、一人ひとり独立した存在者ではなく、本来的につながっているという事実です。私たちたちは、人の眼を気にしたり、眼の前の人が出した鼻血に動揺したり、見ず知らずの人を助けたりします。幼い子どもでも、自分よりも年長の子どもが泣いていれば、背中をさすってあげたりします。無条件の気遣いは、ささやかではあっても、人の本来性です。

 どんなに楽観的に見えても、多数決や説得力などで共同性・公共性を作り出すことよりも、本来の気遣いを踏まえることのほうが大事ではないでしょうか。同じ議論をしていても、本来の気遣いを欠いた議論をしていれば、双方がどこまでも自分の利益ばかりを気にかける議論になりますが、本来の気遣いとともに議論をするなら、自・他の利益を超えたところから全体を見渡した、よりよい議論ができるはずです。もちろん、相手が、どこまでも自分の利益を主張しつづければ、気遣いどころではなくなりますが、そうした人は、そう多くはないはずです。そうした少数派を前提に議論の仕方を決めることは、怯えに負けることであり、勇気を捨てることです。

教育顧問 田中智志
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