学ぶこととよく生きることについて、すこし考えてみましょう。どちらも、人のなす行為ですが、大きな違いがあります。
学ぶことのなかには、学ぶことの目的が、ふくまれていません。学ぶことの目的は、さまざまで、たとえば、資格を取ることだったり、リッチになることだったりしますが、これらの目的は、算数や理科や国語の勉強の中味ではありません。
学んでいるとき、人は、その目的に達していません。学び終わること、そして学びの外にある行きつくべき目的に到達することが、学ぶことの理由です。
アリストテレスの言葉を用いれば、行為の外に目的があるとき、その行為は「キネーシス」と呼ばれます(『形而上学』第9巻第6章)。キネーシスの行為は、つねに「未完了的」です。学ぶことだけでなく、歩くことも、作ることも、すべて未完了的です。完了していれば、しませんから。つねに、生成状態にある、ということもできます。
よく生きることは、どうでしょうか。よく生きることには、行きつくべき目的がありません。しいていえば、よく生きること自体が目的です。同じように、幸せに暮らしていることには、行きつくべき目的がありません。しいていえば、そうすること自体が目的です。
このように、行為の中に──しいていえば──目的があるとき、ふたたびアリストテレスの言葉を用いれば、その行為は「エネルゲイア」と呼ばれます。この「エネルゲイア」は、いわゆる「エネルギー」の語源ですが、意味はまったく違いますね。
ところで、学ぶことがエネルゲイアである場合もありそうです。何かの手段として学ぶのではなく、学ぶことそれ自体が目的であるような学びもありそうです。そのような学びは、よく生きること、幸せに暮らすことと、似てくるでしょう。研究者としてそんな学びができればいいのですが、時代は、まったく別の方向に向かっています。