いわゆる「思想」に親しむことは、基本的に、時を超えることです。思想家は、多くの場合、はるか昔の人たちですから。
たとえば、私が生まれたのは1958年ですが、私が読んでいる本の著者、たとえば、マルティン・ハイデガーは私よりも70年前に生まれ、ジョン・デューイは100年前に生まれました。マルティン・ルターは475年前に生まれ、トマス・アクィナスは733年前に生まれました。
にもかかわらず、彼らの書き残した思想は、はるかな時を超えて、私の心を昂ぶらせます。私は、ずいぶん長く間、彼らの思想を理解しようとしてきました。彼らの本を開くたびに、私は、自分がまるで彼らから呼びかけられているような感覚をいだきます。
彼らが見出そうとしてきたことが、私が見出そうとしていることと、共鳴し共振しているような感じです。かりに、この見出そうとしていることを「真理」と呼ぶなら、彼らと自分の真理に向かう力が、引きあうような感じです。
彼らが使う言葉は、ドイツ語、ラテン語、ギリシア語です。ですから、翻訳にも助けてもらいますが、原文で読むのが、いちばんいい読み方です。文法の勉強は面倒ですが、仕方ないので、適当にやります。そして、細かいことはあまり気せず、どんどん読みます。
そうしていると、彼ら自身が、書きあぐねているような印象を受けます。こういう言い方しかできないけれども、とてもこれではダメじゃないか、というような。それはたぶん、彼らが、いわゆる「言葉」では語りえないことを、語ろうとしているからだと思います。
その限界を超えようとする彼らの力を感じるとき、私自身が生き生きとしてきます。だれかのつまらない言葉に暗くなっていているときでも、たとえば、こんな言葉に出会い、元気が出てきます。
「〈生きる〉が贈られる、そこは[つまらない]言葉が壊れるところ」
(Ein »ist« ergibt sich, wo das Wort zerbricht)。M. Heidegger, Das Wesen des Sprache, S. 204.