教育コラム 2016.05

声としての「あなた」

 リルケ(Rainer Maria Rilke)という詩人がいます。オーストリアの人で、1875年に生まれ、1926年に白血病でなくなりました。51歳でした。
 そのリルケは、1905年の『時祷集』という詩集の「第一部 僧院生活の書 19」で、次のように記しています。「あなたには、あなたの間近において、静寂とともにある私の魂が、見えないのか。新緑のような私の祈りは、それが木へと熟すように、あなたのまなざしのなかで、熟さないのか」と。

 この「あなた」は、聖書に出てくるイエスですが、「私」にとってもっとも大切な人、といいかえられます。「あなた」は、「私」に愛を贈り届け、「私」の他者への愛を呼び覚ます人です。いいかえれば、ちゃんと考えないといけないこと、じっくりと深く考えないといけないこと、そして次世代に伝え受け継がれるべきことを、教えてくれる人です。「私」は、その「あなた」に「私」に呼びかけてほしい、と切に祈ります。

 「あなた」は、どこにいるのでしょうか。はるか彼方の天空にいるのではありません。「あなた」は、「私」のなかにいるのです。しかし、どんなに「私」のなかをのぞき込んでも、「あなた」の姿は、見えないでしょう。「あなた」は、声として、感じられるだけです。「私」が「私」の心の奥底に広がる響きを声として聴くとき、「私」は「あなた」を感じることができます。常識的な人なら、それは「幻聴」ではないですか、というかもしれませんね。

 私なりに引き取っていえば、リルケのいう「あなた」は、「良心の呼び声」と考えることができます。「良心の呼び声」なら、私たちのだれもが聴いたことがあるはずです。

 だれかを傷つけたり、大事なことをせずに逃げ出したりと、人は、いくつもの過ちを犯し、それを後悔しながら生きています。「あのときに戻ってやり直したいなあ」と思ったりします。そのとき、人を衝き動かしている善への力が、「良心の呼び声」です。

 この「良心の呼び声」は、どのようにして生じるのでしょうか。もともと神から贈られているけれど、人がなかなか気づかないものでしょうか。それとも、たんなる学習の成果でしょうか。

教育顧問 田中智志
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