教育コラム 2016.08

想いを退ける思考

 人に「どうして、人を助けるのですか」と問われたら、私は「その人が喜ぶ姿を見たいから、その人を喜ばせたいからでしょうね」と応えます。
 そうすると、ときに「それは、その人のためのように見えて、実際は、自分のためですね。つまり、自己満足ですね」と反問されます。
 そのときは、笑って無視せずに、次のように応えます。「違います。それは、『自分のため』ではなく、『自分のこと』です。いいかえれば、結果として私を肯定することです」と。
 そうすると、たいてい、その人は、怪訝な表情を浮かべて、去って行きます。

 私が「あなた」を助けることが結果として私を肯定することになることは、私が「自分」のために「あなた」を助けることではありません。後者は、私が「あなた」を「自分」を肯定する手段に貶めることです。私が「あなた」を助けることが結果として私を肯定することになるとき、私は「あなた」にただ真摯なのです。

 人が人に真摯であることは、人が人の声にただ聴き従うことです。それも、声になっていない声を聴き、それに従うことです。私たちの感覚は、ときに音声としての声を超える声を聴き取ることができます。その声は、人の声でありながら、すでに人を超越する声です。
 その、聞こえないけれども聴き取られる声は、古代ギリシア語で「クレーシス」(klēsis)と呼ばれました。同じく古代ギリシア語の「プシュケー」(psuchē)は、そうした声を聴き取る心の器という意味でも用いられました。

 目的/手段の図式でものごとを考える人は、真摯な想いでものごとを考える人をなかなか理解することができません。いいかえれば、思惑で思考する人は、幼い子どものように純朴に想う人がわかりません。
 「教師」を名乗る人が、しばしばその思惑の思考で、子どもの純朴な想いを引き裂くことがあります。それは、多くの場合、知性の貧困が招く心情の貧困であり、その逆ではありません。ほとんどの人には、あのプシュケーがあるはずですから。

教育顧問 田中智志
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