教育コラム 2016.09

「問題」と「問い」の違い

 以前にも取りあげたことがありますが、もう一度、「問題」(problem)と「問い」(quest/question)の違いについて、考えてみたいと思います。

 たとえば、学校のテストに出る「問題」は、すべて「解答」があります。また、社会で取りざたされる「問題」も、何らかの「解決策」があります。たとえば、「少子高齢化」による税収の低減、医療介護費の増大にどのように対処するか、という行政対応の「問題」は、きっと解決策が見つかるでしょう。「グローバルに活躍する人材」をどのように育成するか、という教育方法の「問題」も、きっと解決策がみつかるでしょう。

 しかし、解答や解決策になじまない「問い」があります。たとえば、「人が人としてよりよく生きるとはどいうことか」という「問い」がそれです。この「問い」は、古いヨーロッパ哲学の言葉を用いていえば、「真理(真実)(aletheia/veritas)とは何か」、これまた古いキリスト教思想の言葉を用いていえば、「愛(敬愛)(agape)とは何か」、といいかえられます。こうした答えのない「問い」は、「アポリアの問い」と呼ばれてきました。文字どおりのその意味は「通り抜けられない問い」です。

 こうした「解決」「解答」になじまない「問い」は、この世界の通俗通念的な意味・価値、規約・制度を超える、根源的・本来的な「問い」ですが、けっしてアリストテレス以来の「形而上学」だけが扱う「問い」ではなく、だれもが問い続けたいと切実に願うところの「問い」です。「よりよく生きたい」と思わない人はおそらくいないでしょうし、何かを真摯に探究したり、だれかを育てたりしている人で、「真理」や「愛」を思わない人もいないでしょう。

 しかし、やっかいなことに、こうした「真理」や「愛」は、五感で知覚されないものであり、これこれであると表象(述定)できないものです。フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、こうした「アポリアの問い」が向かうところを、感覚できないが「感受されるべきもの」(sentiendum)、認識できないが「思考されるべきもの」(cogitandum)と形容しています。

教育顧問 田中智志
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