教育コラム 2016.11

いのちの力

 前回述べたように、生命に由来する、諦めることを知らない生きる力は、幼い子どもたちにも、変革や革命を志した人びとにも見いだされる、人の本来的な力です。
 そのひたむきな力は、他の人の心を動かします。たとえば、高い熱にあえぎながら、全身を震わせながらも、なおただひたすら生きようとする幼い子どもの姿に、親がどんなに心を動かされ、鼓舞されることでしょうか。
 また、たとえば、迫害のなか、次々と仲間が倒れてゆくなかで、なお信じるべきこと、いのちのかけがえのなさを信じ続ける人に、その人を迫害する人ですら、心を揺さぶられ、猛省を促されることがあります。あのパウロのように。
 私たちの多くは、ひたむきに生きるいのちの力にふれ、共鳴共振する存在です。

 しかし、私たちは、ときに、このいのちの力を無視してしまいます。自他の関係のとらえ方、倫理の考え方によって、そうなってしまうことがあります。
 すなわち、人が、自分と他者を対立関係でとらえ、勝ち負けだけにこだわったり、倫理を権利と公正に限定し、自分の正当化と分配の平等にこだわったりしていると、このいのちの力にふれること、他者と共鳴共振することは、生じなくなるのです。
 自分と他者を対立関係で見ているとき、倫理を権利と公正に限定してしまうとき、自分と他者の、知覚を超えたつながりが、見えなくなるからです。聞こえないいのちの声を聴く力、見えないいのちの形を観る力が、忘れられてしまうからです。
 ちなみに、「生きる意味を問う」などという問いがもっともらしく立てられるのは、このいのちの力を忘れ、生きることを、通俗的な意味(価値)で正当化しようとするからです。

 近代ヨーロッパに生まれた教育学という思想は、発祥以来、ずっとこの、聞こえないいのちの声を聴く力、見えないいのちの形を観る力を、語ってきました。たとえば、『人間の教育』を著し、幼稚園を考案したF.フレーベルのいう「予感」は、そうした力です。
 私たちのすべては、いのちの力とともにこの世界に生まれ出てきました。そして今もなお、その力とともに生きています。ただ、残念なことに、しばしば忘れてしまうのです。

教育顧問 田中智志
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