教育コラム 2016.12

「弱さの力」という贈りもの

 「力」といえば、「体力」「権力」「圧力」のような「強さ」を思い出します。こうした「力」に対し、「言葉の力」は、刃物を突きつけられるような、怖い場面を思い浮かべればわかるように、なんとも頼りなく、ときに無力にも思えます。
 しかし、「言葉の力」は、すくなくとも人に対しては、無力であるとはいえません。言葉は、人の心を動かす力をもっているからです。言葉は、深い想いをともなうとき、人の心を動かす力となるからです。はるか昔、アリストテレスは、この「言葉の力」を「レトリケー」(retorike)と呼びました。英語の「レトリック」(rhetoric)のもとの言葉です。

 アリストテレスは、人の心を動かす「言葉」を、実際に聞こえる言葉と考えていたようですが、その「言葉」は、聞こえる言葉でもあれば、聞こえない「言葉」でもあります。たとえば、人が助けを求める「言葉」は、実際に発せられる「助けて」という言葉とはかぎりません。痛み傷ついている人がそこにいるだけで、私たちは、その「言葉」を聴き取るからです。
 たとえば、鷲田清一さんは、その、声にならない助けを求める声を発するものを、「弱さ」と呼んでいます。それは、そこにいるだけで、私たちの多くが心を動かされ、「何かしなければ」という想いを抱いてしまう人の、その在りようです。
 したがって、この「弱さ」は、いわゆる「弱者」の「弱さ」ではありません。むろん、「弱者」と呼ばれる人がこの「弱さ」を体現していることも、多いでしょう。しかし、「弱者」の「弱さ」は、経済的・身体的・社会的な「能力」を規準にした概念であり、ここでいう「弱さ」は、私とあなたの「呼応の関係」を前提にした概念です。

 そして、この「弱さ」が他の人の心を揺り動かし、支えと援けに駆りたてることが、「弱さの力」と呼ばれています。この「弱さの力」は、とりわけ「臨床の場」で顕わになります。たとえば、生誕の床、病の床、死の床で。そうした床に横たわるとき、人は、すべての社会的地位・評価から解放されて、人と知覚を超えてつながるからです。教育学者のJ.デューイが「依存の力」と形容したのも、この「弱さの力」です。
 「弱さの力」は、人が、人として人と贈りあうべき、もっとも大切な贈りものです。

教育顧問 田中智志
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