教育コラム 2017.01

半分、水につける

 14世紀に、パリに住んでいた思想家エックハルト(Maistre Eckhart)は、次のように述べています。「水のなかに差し込まれた棒を見る人は、その棒がまっすぐなのに、折れている、と思う。水が、空気よりも濃密だからである。しかし、棒は、それ自体、そして澄んだ空気のなかだけでそれを見る人にも、まっすぐであり、折れていない」。
 人は、往々にして、物事を、半分、水につけて、見ているのではないでしょうか。まっすぐなのに、折れているように、いいかえれば、歪めて、見ていないでしょうか。

 半分、水につけることは、具体的にいえば、自分に固執することです。自分の考え方、自分のやり方、自分の願望・欲望などにとりつかれることです。「批評」とか「評価」と呼ばれるかたちで、私たちは、自分の考え方を表明します。それらは、「自己表現」「自己主張」と誉められることもありますが、物事を自分流に歪めることにすぎなかったりもします。
 匿名は、しばしば、この自分流の歪曲を増幅します。発言の責任をとらなくてもいいからです。匿名は、たしかに自由に意見がいえる状態を作りだしますが、自由に意見をいう自分が、物事を半分、水につけてしまう自分であっては、自由になる意味がなくなります。

 「自分」の正しさを、つねに仮のものにしておくこと――これが、自分への固執、物事の自分流の歪曲を遠ざける、おそらく唯一の方法でしょう。一応、こう考えているけれども、つねに暫定的なもので、絶対的なものではない、と自分に言い聞かせることです。
 「自分」の正しさをつねに仮のものにすれば、たいていの場合、コミュニケーションはスムーズに行われますし、相手の言葉にひっかかっても、大ごとにならずにすみます。「自分は絶対に正しい」と思っていると、実際に間違ったとき、嘘をついたり、誤魔かしたり、強弁を弄したりする羽目に陥ります。重要なことは、この場合の「自分」が、私の「自分」でもあれば、相手の「自分」でもある、ということです。

 ちなみに、エックハルトは、「自分」を超える契機は「神を信じる」ことだ、と考えていましたが、その神は、もうどこにもいない「不在の神」でした。私たちの多くにとっては、この、もういない神すらいないのでしょうか。

教育顧問 田中智志
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