教育コラム 2017.03

「驚く」が暗示するもの

 私たちは、久しぶりの出会いに「突然のことで驚いた」といいます。また、40歳を超える現役スポーツ選手を見て「驚異的な身体能力だ」と形容します。他にも「昆虫たちの驚異の世界」とか「驚異の小部屋」とか、「驚異」という言葉は、しばしば使われます。
 その字義は「異なることに驚くこと」ですが、辞書を見ても、「驚く」とはどういうことか、書かれていません。情動は、言葉で説明しがたいからでしょう。
 試しに、「驚く」とは、想像力を喚起する情動である、と考えてみましょう。つまり「これはいったいなんだろう?」「どうしてこんなかたちになったんだろう?」というふうに、想像力が掻き立てられるときの、心のふるえやゆらぎである、と。

 こうした想像力を生みだす感動は、「哲学」の原動力でした。ジョン・デューイというアメリカの哲学者は、1920年の『哲学の再構築』という本において、「哲学」という思考の基礎は「詩的なもの(poetry)であり、劇的なもの(drama)である」と述べています。人を興奮させるもの、興味をかきたてるものが、哲学の起源である、と。
 「‥‥最終的に哲学を生みだす質料は、科学の対象でもなければ、説明の対象でもない。それは、想像や暗示から生まれる恐怖や希望を表現し表徴するものであり、理知的に確認される客観的事実の世界を意味するものではない。それは、科学ではなく、詩的なものであり、劇的なものである」。
 ずっとさかのぼれば、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスも、『形而上学』という本で、人が「知恵」を「愛し求める」きっかけとして、「驚異」(thaumazein)を挙げています。つまり、人が哲学(=知恵を愛し求めること)に向かうのは、驚き、なぜだろうと想像するからだ、と。

 何かに驚き、さらにあれこれ想像することが、ときに、ずっと自分の心を占めてしまうことがあります。それが本来、自律的・意識的な活動ではなく、外からの・出来的な事態だからです。いいかえれば、「自己」が決定し選択することではなく、人全体が襲いかかられ衝き動かされることだからです。
 そして、何に驚き、想像力をかきたてられるのか、によって、人の人生が方向づけられる、ともいえるでしょう。宿題をしないで夢中になっていることが、驚異でありずっと想像力をかきたてるものなら、それは、その子の人生にとって、もっとも大切なものかもしれません。

教育顧問 田中智志
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