教育コラム 2017.04

「畏敬の念」を語るために

 想像力は、見えないものを「象る」という営みそれ自体です。この想像力によって象られたものが、古くはカント、現代ではジル・ドゥルーズが「理念」と呼んだものです。本来の理念は、つねにこの「私」の、この「情況」に即して構想されたもの、つまり特異性です。
 その理念が、他の多くの人と共有される場合、それは「普遍性」をもちますが、そうでいない場合も、多々あるんじゃないか、と思います。
 ともあれ、理念が普遍的であるとき、それは、往々にして「価値規範」へと変貌します。「~すべきである」というかたちで表現される行為や思考になります。「愛は無償でなければならない」「命は大切にしなければならない」みたいな。

 教育という営みのもっともやっかいなことは、先生たちが、この価値規範を子どもたちに教えようとすることです。先生たちは、国語でも、社会でも、道徳でも、あらかじめ正しいと定められた価値規範を子どもたちに教えよう、とします。
 ところが、そうした価値規範は、すべて抽象的なので、多くの場合、子どもたちの興味関心をひきません。そこで、先生たちは、具体的な情況を示し、子どもたちの興味関心をひこうとします。あれこれの教材が開発され、授業展開が工夫されます。「授業研究」と呼ばれる研修の一環は、こうした開発・工夫のために行われます。

 たとえば、「畏敬の念」も、それが学習指導要領に記載されてから、正しいと定められ、教えられるべき価値規範として位置づけられるようになりました。
 オットー・F・ボルノーという教育学者が『畏敬』という本を書いていますが、そこで畏敬される人は、あのイエスです。キリスト教文化に親しんでいる人びとにとって、イエスを畏敬することは、ごく自然なことです。畏敬の念は、ふだんから人びとの心のどこかにあります。
 したがって、そうした文化圏では、わざわざ「畏敬の念」を価値規範として教える必要はありませんし、そのために授業研究をする必要もないのです。ふだんの生活のなかで子どもたちが親しんでいないものを無理やり教えようとするときに、価値規範の教育、「畏敬の念」の授業研究が必要になってきます。
 まずは、理念と価値規範を区別し、理念が生の現実と不可分であることを確認しておきます。

教育顧問 田中智志
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