教育コラム 2018.01

自分のうつわ

 スポーツでも、勉強でも、音楽でも、自分でなかなかよくできるな、と思っているときに、私たちは、心地よさ(快感)を感じます。その心地よさは、自分が他人よりも秀でているという認識や、自分が自分の理想に近づいているという認識によって、もたらされます。
 こうした心地よさは、「よし、もっとがんばろう」という動機づけを生みだします。しかし逆に、こうした心地よさが感じられないと、なかなか、「もっとがんばろう」という気持ちになれません。「もうやめてしまおう」と思ったりもするでしょう。

 この差は、何が生みだすのでしょうか。
 一言で「才能」といってしまいたくなりますが、この言葉は、誤解しか生みだしません。「才能」は、はじめからまとまったものとして、私たちのなかに潜んでいるものではないからです。
 「才能」は、確かに感じられるものですが、絶対的なものではありません。事前に、試みを続けるか、やめるかを決定できるものとしての、所与の実体ではないのです。

 なるほど、自分が1年かけてやっと弾けるようになったピアノ曲を、たった一週間で弾けるようになる人がいます。自分がどんなに考えても解けない算数の問題を、5分で解いてしまう人がいます。そんな人を目の当たりにすると、「才能」の違いを確かに感じます。
 しかし、そうした違いを絶対的なものと決めつけ、自分の試みをやめてしまえば、その瞬間に、その人は、音楽家になることも、教養ある人になることも、できなくなります。音楽とともに生きること、知性とともに生きることができなくなります。

 悔しさ、悲しさ、不甲斐なさといった、負の感情は、人から生気を奪います。ですから、人は、なんとかして、その感情を消すために、折り合いをつけます。自分の望みと自分の現実の違いを、もっともらしく正当化しようとします。たとえば「私には才能がないから」と。
 それは、自分のうつわを、自分で決めることです。残酷なことですが、それは、ときに必要なことです。しかし、その「とき」を決めるのは、心地よさを感じる自分ではないと思います。おそらく、真に自分が為すべきことを知ろうとし続ける自分ではないでしょうか。

教育顧問 田中智志
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