教育コラム 2018.04

表現と類似

 教育の世界では、「表現」や「形成」が重視されます。人はみずから表現し自分を形成する存在である、ともいわれてきました。たとえば、大正期・昭和前期の教育学者、木村素衛(1895-1946)は、人間を「表現的・形成的存在」と規定しました。人は、自分をつねに作り変えつつ生きていく存在であり、みずから表現しつつ、おのれを形成する存在である、と。
 この表現し形成することは、彫刻家が、一打ごとに石と対話し応答しながら、鑿を打ち込んでいくように、自分が生きている今ここで、他者に応答しながら、自分を表現し形成することです。

 日常的な教育実践も、同じような応答の相をふくんでいます。教師は、いつも所与の目標から逆算し、目的合理的に子どもたちに働きかけているのではありません。教師はむしろ、具体的情況のなかで、子どもの表情・仕草を感じながら、その子どもに必要なものを洞察し応答しています。その行為は、目的合理的というよりも呼応関係的です。
 そのような教師の鋭敏な応答は、さまざまな条件づけ、家庭環境、生育歴、気質、性格、習慣、交友、学力を勘案しなければならないにしても、眼前の子どもの生きる力(アニマ)を感じとる交感性によって支えられています。

 それにしても、そもそも「表現」とは何でしょうか。木村がどのように考えたのか、私は知らないのですが、こんなふうに考えてみましょう。
 「表現」されるものは、自分がよいと思うものです。それは、富士山だったり、人の心だったりします。富士山はともかく、自分の心に何か、すばらしいものを感じとり、それを文字や造形や音楽で「表現」するとき、その「表現」されたものは、すばらしいものに「類似」したものです。それは、自分を支えるものでありながら、自分ではない他なるものです。
 つまり、「表現」は、自分ではない他なるものを自分を支えるものとして、具体的に示すことです。自分のすばらしさを自分を支えるものとして誇示することではなく。いいかえれば、「表現」は、自慢、自己陶酔、エゴイズムを超える行為です。ちなみに、中世ヨーロッパの思想家は、神は創造する存在であり、人は、神の「類似」(similitude)だから、創造に似た「表現」(repraesentatio)を行う、と考えました。そして、創造が愛であるように、表現も愛である、と。

教育顧問 田中智志
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