教育コラム 2018.07

「自己」にこだわらずに

 一昔前とちがい、現在の大学4年生にとって、この夏休みは、開放感あふれる夏休みでしょう。私が学生のころは、4年生の夏休みは、就職活動開始前の準備期間で、とても休んではいられませんでした。今の4年生の夏休みは、就職活動後のバカンス(?)の時間でしょう。
 ところが、夏休みに入っても、まだ就職先が決まっていない学生もいます。彼(女)らは、かなり(とても?)焦っています。大事なことは、やはり自分の人生のヴィジョンのようです。自分はどんな仕事をしたいのか、具体的に想い描くことです。

  ただ、自分の人生のヴィジョンを想い描こうとするとき、「自分はどんなタイプの人間か」ときまじめに問わないほうがいいでしょう。よく「ちゃんと自己分析をしなさい」と教えられますが、無茶な話です。自分がどんな人間なのか、人生に何を望んでいるのか、ふつう、人ははっきりと知りませんし、そもそも明確に知る必要もありません。
 もう13年前になりますが、哲学者の鷲田清一さんは、2005年の『〈想像〉のレッスン』という本のなかで、「じぶんについて不明な者どうしが絡みあい、支えあって生きているのが、わたしたちの共同生活である」と述べています。
 たしかに、あぶない会社もありますから、事前のリサーチは大事ですし、いくらなんでも無理、ということもありますが、「自己」にはこだわらないほうがいいでしょう。なんとなく好き、いつのまにか引き寄せられる、そんな漠然とした、しかしなんだか逆らえない力に引き寄せられて、人は人と集いますから。

 こちらは、もう20年近く前になりますが、フランスの社会学者エーレンベルク(Ehrenberg, Alain)が、1998年に『疲れ果てた自己』(La fatigue d'être soi)という本を出して、ベストセラーになりました。その本のなかで、彼は、現代人は、何にでも自己責任を負い、たえず自己充足を求めることで、「自己」を追いつめ、あからさまな抑圧などないのに、失敗に怯え、疲れ果てている、と説いています。
 つまり、自己責任、自己充足、自己決定などの、「自己」への過大な要求が、人と世界・他者・自然のつながりを失わせている、と。「自己」にこだわり、無理にがんばっていると、擦り切れ、グダグタになってしまいますよ、と。

教育顧問 田中智志
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