教育コラム 2018.09

冷厳な事実を深く感受する力

 もはや、あまり語られることがなくなった小説のジャンルに、「SF」(サイエンス・フィクション)があります。SFがもっとも盛んだったのは、1970年代・80年代でしょうか。たとえば、小松左京の『日本沈没』(1973年)は、映画にもマンガにもなりました。

 1982年にハリウッドで制作され大ヒットした『ブレードランナー』も、P・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか』が原作でした。ちなみに、昨年、この映画の続編『ブレードランナー2049』が作られました。じつに35年ぶりです。

 こうしたSFのテーマの一つが、人工知能(AI)の暴走です。いちばんよく知られているのは、1984年に第一作が作られた『ターミネーター』シリーズではないでしょうか。そこでは、人工知能「スカイネット」が指揮する機械軍に対する、人類の絶望的ともいえる抵抗が、描かれています。

 この人工知能の暴走というテーマの中心にあるのは、「人間と人工知能の違いは何か」といった問い、いいかえれば、「人間の人間らしさとは何か」という問いだと思います。私がこの問いにどうしても感じてしまうことは、人間の機械に対する恐怖感であり、その恐怖感を生みだしている人間中心という考え方です。

 この人間中心の考え方は、人間が、他の生きものよりも圧倒的に優れているとか、未来を創造する科学技術を所有しているとか、AI時代を生き抜くためには科学技術を制御する知恵が必要である、といった考え方にも見いだされます。

 しかし、SF小説のなかには、この人間中心の考え方と無縁のテーマもありました。それは、愛憎・悲喜のような「人間的感情」を越えた、圧倒的な無情、寂寞、荒寥を黙示することです。「人間」や「自己」が仮象・塵芥にすぎないという宇宙論的事実を感じさせることです。たとえば、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』や、手塚治虫の『火の鳥』です。

 私が人のなかに見いだすのは、このもっとも冷厳な事実を深く感受する力です。その事実を拒んだり憎んだり悲しんだりする感情ではなく。「善・悪」「美・醜」「聖・俗」などと意味・価値づけられるまえの、圧倒的な事実を、ただただ受け入れる力です。この力こそが、見ることも聞くこともできない「存在」を黙示するのではないでしょうか。

教育顧問 田中智志
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