教育コラム 2019. 03.

忘れられた静寂

    二年くらい前に、フランスでベストセラーになった本に『静寂の歴史』があります。静寂と訳した言葉は、「シランス」(silence)ですから、「静寂」だけでなく「沈黙」も意味します。この本の日本語版が、昨年の暮れに出版されました。『静寂と沈黙の歴史』です。
    著者は、アラン・コルバン(Alain Corbin)という歴史学者です。1936年生まれですから、もう80歳を越えています。長くパリ大学の教授をしていました。たくさんの本を書いてきた人で、『においの歴史』『からだの歴史』『レジャーの歴史』『男らしさの歴史』などがあります。

    コルバンは、『静寂の歴史』の冒頭に、「静寂は、たんに音のない状態ではない」と書いています。「そのことを、私たちはすっかり忘れてしまった」と。
    もともと「静寂」は、奥深さ、神聖さをもっていたのに、今ではそれは、気まずい「沈黙」となり、人を不安させるもの、脅かすものになってしまった、と。
    たしかに、今では、黙っていても、ただそばにいるだけで、ともに在るという安らぎを感じることは、まれなことかもしれません。犬や猫にできることが、人にはできなくなっているようです。駅のホームでも、街の通りでも、モニターからも、人工的な声や音が流されています。

    ルネ・マグリットの描いた絵に「光の帝国」(L'Empire des lumières)があります。いくつものヴァージョンがありますが、1955年に描かれた一つを紹介します。まだ明るい空が広がっているのに、すでに暗くなった森を背景に、一軒の家が、街灯にほのかに浮かびあがっています。二階建てのその家の二階の窓からは、暖かい灯りがもれています。
    コルバンは、この絵画に、闇と光の対比ではなく、静寂を見いだしています。闇も光もすべて、静寂を暗示している、と。たしかにこの絵は、昼と夜が混在するという意味で、時間の流れを越えています。時間が流れないのだから、どんな喧噪も生じないでしょう。
    しかし、この絵の描く静寂は、街灯の灯り、窓の灯りかもしれません。闇のなかのほのかな灯りは、希望を、すなわち名声や利潤といった通俗的な輝きとは無縁のそれを暗示しているように思えます。いずれ消え去る運命にある一つのはかないいのちを深く支えるそれを。

教育顧問 田中智志
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