教育コラム 2019. 05.

いのちの時間と物質の時間

    時間は、見えませんし、触れません。匂いもしません。でも、私たちは、時間を知っています。たしかに、時計の針が進んでいるのを見ることはできますが、それは、時計の針の動きであって、時間そのものではありません。私たちが感じる時間は、いったい何なのでしょうか。

    「記憶」は、私たちの感じている時間を暗示しています。私たちが「知覚した」と思っているものは、その表現が過去形であるように、記憶です。そうした記憶は、時間の推移を暗示する「過去」を示しています。この過去は、私の現在のなかにあります。

    「私」の心は、つねに「過去」から遠ざかっています。私が書いているこの瞬間は、一瞬前の私から遠ざかっています。今、この瞬間の私は、未来へと傾いています。この傾きの現れが、いわゆる「行動」ではないでしょうか。いわば、私は、過去を引きずりながら(?)、未来へ向かっています。なんだか、ありきたりな表現ですが。

    こんなふうに考えると、私たちが感じる時間は、過去・未来をふくむ一つの現在というまとまり、と考えられます。このまとまりは、始まっては終わり、また始まっては終わり、とつづきます。映画のシーンが、そんな感じでつづくように。
    こうした時間の連鎖を、フランスの哲学者、ベルクソン(Bergson, Henri)は、「持続」(durée)と呼びました。次々につづいていくこと、という意味です。この「持続」という時間は、人の「意識(良心)」(conscience)に固有な時間という意味で、いのちの時間です。
    このいのちの時間は、物質の時間から区別されます。物質の時間は、エネルギーが少ない方向に向かいます。つまり、死に向かいます。
いのちの時間は、この物質の時間に抗います。抗っても、勝てないのですが、抗います。年をとってくると、この抗いが、日常生活にはっきり現れてきます。髪を黒く染めたり、増やしたり、シミ対策をしたり、アミノサプリを飲んだり、‥‥‥と。その意味では、年を取るということは、いのちの時間を如実に感じるきっかけです。
    さて、その時間は、どこに向かっているでしょうか。

教育顧問 田中智志
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