教育コラム 2019. 11.

失うという経験

    「ラッシュ」という名前の音楽バンドがあります。カナダのロックバンドです。曲の歌詞のほとんどすべてを、ドラマーのニール・パートが書いています。そのラッシュが、1982年に『シグナルズ』というアルバムを発表しました。
紹介したいのは、そのなかに収められた「失うこと」(Losing It)という曲です。こんな歌詞です。

    「どんなに一心に踊っていても、痛みと疲れで、音楽から遅れる。手足の痛みに耐えながらも、顔が上げられない。汗が噴きだし、筋肉は硬直し、肺は焼けつくように熱い。
それでも、一瞬だけ、過去の栄光がよみがえる。響きわたる拍手と喝采。
そして、彼女は、足を引きずりながら、練習場を後にし、寝室に入り、ドアを閉めた。
作家は、よどんだ眼で、白い紙を凝視している。どうしようもない。彼の髭は白く、彼の顔はしわだらけ。そして怒りの涙に濡れている。
30年前、言葉は、情熱的で魅力的で、奔流のように溢れた。
今や、彼の心は、病と迷いで暗く濁っている。彼は、陽が入らないキッチンのドアを見た。
人は、この世界に生まれるが、そのなかのほんのわずかな人だけが、理想を描き、世界を変える。ほとんどの人は、自分の小さな欲望や夢想に流されて生きるだけだろう‥‥」

    たしかに、ラッシュが歌うように、人は、ただ「欲望や夢想」に流されるよりも、心に人生の「理想」を描くべきでしょう。
    しかし、懸命に努力をしても、うまく達成できるとはかぎりません。そして、そうした「理想」を失うことは、悲しいことです。その悲しみを避けようとして、あえて「理想」を描かない、という人もいます。なかには、人が「理想」を追求することを、愚かなことだと、せせら笑う人すらいます。
    しかし、「理想」が達成できないという悲しみの経験は、「理想」をもたず、ただ流されながら生きることに比べれば、はるかに豊かで濃密な経験です。めざすものに向かい努力し続けたけれども、それが夢に終わってしまうことは、たしかに悲しい経験ですが、誇るに値する経験ではないでしょうか。

教育顧問 田中智志
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