教育コラム 2019. 12.

一人でいると独りで在る

    「一人でいる」とは、どういうことなのでしょうか。
    一人暮らしの孤独は、哀れむべき状態として語られています。家族から離れ、家族を失い、一人で暮らす「独居老人」に対しては、近隣のみんなで声をかけ、気遣い、支えていきましょう、という善意の声が聞こえてきます。「一人でいる」ことは、なるほど、哀れまれるべき、かわいそうな状態なのかもしれません。
    引きこもりは、解消されるべき状態として語られています。学校にも行かず、自室で一人でゲームに耽っている少年は、レジリエンスを高め、不安に打ち克ち、友人と喜怒哀楽をともにする喜びを知るべきだ、と説かれています。なるほど、「一人でいる」ことは、正しく導かれるべき、社会的ではない、まずい状態なのかもしれません。

    ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーは、あるときから、「シュバルツバルト」と呼ばれる広大な森林地帯のはずれにある山荘(ヒュッテ)に籠もり、一人で思索を重ねるようになりました。たまに会話する相手は、地元の農夫たちですが、その会話は、けっして賑やかで愉しいものではありませんでした。たまに、静かに、ぽつりぽつりと、事実を語るだけでした。「私たちが話し込むことは、ほとんどない」と、ハイデガーは述べています(「私たちはなぜ田舎にとどまるのか」1935年)。
    彼は、「一人でいる」ことと「独りで在る」ことを区別しています。「大都会で、人間は、他のどんな場所よりも容易に一人でいることができる。しかし、彼は、そこでけっして独りで在ることができない」と。「一人でいる」ことと違い、「独りで在ることは、根源的な力をもっている。その力は、私たちをバラバラに孤立させてしまうのではなく、まさに自分が在ること全体を、すべてのものごとの本質に向けて解き放つ」と(同上)。

    私たちをつなぐ「すべてのものごとの本質」とは、何でしょうか。私たちのつながりを浮かびあがらせる「存在」とは何でしょうか。無理やり端的にいえば、それは「私の居場所」ではなく「私という贈られたいのち、それに与っていること」です。この語りえないことを語り続けることが、ハイデガーの生涯の仕事だったと思います。「一人でいる」と「独りで在る」を分けるのは、この「存在」へのベクトルをもたないか、もっているか、だと思います。

教育顧問 田中智志
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