教育コラム 2020. 02.

歌声と旋律

    大学生のころに、読もうと思いながら、ちゃんと読まなかった小説があります。ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』という小説です。サルトルは、私が大学生のころ、ずいぶん人気のあったフランスの哲学者です。今では、すっかり忘れられていますが。『嘔吐』は、この題名で知られていますが、原語はノゼ(nausée)で、「嫌悪感」のほうがわかりやすいでしょう。
    今でも、ちゃんと読んだとは言えないのですが、久しぶりにページをめくっていると、気になる記述を見つけました。最後のあたりです。
    「旋律は、はるか遠くに存在する――はるか彼方の背後に存在する。‥‥‥過去も未来も考えずに、ただある現在から次の現在へと落ちていく、この世界を生きる人(l'existant)の背後に、すなわち日々移ろい、頽落し、死へと滑り落ちるこの世界を生きる人の背後に、旋律は、つねに生き生きと毅然と、無慈悲な証人のように、同じ姿で存在している」。

    古いレコードで、歌曲を聴いていると、その音楽の歌声と旋律がまったく色合いの違うものとして、浮かびあがることがあります。どんなに美しい声であっても、それが人の声であるかぎり、声は、この世界を生きる人の移ろう生を滲ませます。しかし、その背後にある音楽の旋律は、何一つ変わることのない恒常性を突きつけてきます。
    むろん、その旋律も、人が作ったものです。しかし、人が作ったものであっても、この世界のさまざまな意味や価値を越えていることがあります。その旋律は、人が意図し工夫して作りだしたものではなく、その人にたまたま到来した超越的なものかもしれません。
    音楽といえば、どうしても歌や歌詞に注目がいってしまいますが、それらは、人の言葉でできています。人の言葉は、この世界の意味・価値をまとっています。しかし、音楽の旋律は言葉ではありません。そのことを最初に強調したのは、18世紀末のドイツの思想家ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーだったでしょうか。彼が1800年に発表した『カリゴーネ』という著作の後半は、音の響きにこの世界を越えるものを見る試みです。

    サルトルに戻っていえば、彼のいう旋律は、ヘルダーのいう音の響きのように、この世界を越えるものを暗示していたんだと思います。サルトルは、無神論者でありつつも、旋律で、なんとかして超越的理念を語ろうとしたのかもしれません。

教育顧問 田中智志
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