教育コラム 2020. 06.

前向きな姿勢と前向きな論調

    現在、2019年の末に中国で発生したコロナウィルスによって、世界のさまざまなところで、人びとがいのちの危険に晒されています。人びとのあいだで、恐怖や不安が広がり、また家にずっといつづけることで、苛立ちや家庭内暴力なども生じています。
    そんな暗い情況のなかで、しばしば「前向きな姿勢」をとることが、私たちに求められます。〈今こそ、人としての勇気や思い遣りをもちましょう〉、〈コロナに負けないレジリエンス(ねばり強さ)をもちましょう〉、と呼びかけられています。
    心理学では、負の感情に負けず、強い感情をもつための学習が、「ソーシャル・アンド・エモーショナル・ラーニング」(Social and emotional learning [SEL])と呼ばれていますが、このSELを用いて、子どもたちを支えようとする試みも、行われています。

    こうした「前向きな姿勢」を強調する、まさに「前向きな論調」は、もっともな考え方に見えますが、その考え方に違和感をおぼえる人もいるでしょう。たしかに「前向き」であるべきだけど、なんだか変な感じがする、という人がいると思います。
    この違和感は、どこから生まれてくるのでしょうか。
    「屋上屋を架す」(おくじょうおくをかす)という言葉があります。屋根があるのに、さらにその上に屋根を架けることです。無意味なことをまじめにやることを意味します。
    「前向きな姿勢」が無意味だとはいいませんが、「前向きな姿勢」を強調する「前向きな論調」は、どこかこの「屋上屋を架す」ことに似ていないでしょうか。

    基本的に、人は生きようとします。人にかぎらず、生まれたばかりの子猫も子犬も、ただ懸命に生きようとします。そして、猫も犬も、そして人も、無意識に他のいのちとつながろうとします。前向きに生きることも、他者とつながることも、いのちの本来的な姿です。
    「前向きな論調」のように、その本来性(存在論的事実)を、あたかも作りだされるべきだ、と言われると、それはちょっと違います、と感じられるのではないでしょうか。
    考えるべきことは、何がその本来性を妨げているのか、だと思います。生き生きと生きたい、他者と支え合いたいという、本源的な生動・力動を失わせるものは何か、と。

教育顧問    田中智志
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