教育コラム 2020. 08.

包まれるように感じる

    水は、私たちにとって身近な物質ですが、木製の机であれ、金属製の蛇口であれ、形のある物質とちがい、手でつかめません。水は、暑い夏に私たちがよくやるように、手や足、あるいは身体全体を浸すものです。いわば、包まれるように感じるものです。
    「つかむ」ことは、私たちの能動的な生の様態を象徴しています。「夢を追いかける」ことや、「目的を達成する」ことは、夢や目的を「つかむ」という営みです。
    これに対し、「包まれるように感じる」ことは、私たちの受動的な生の様態を象徴しています。生まれたばかりの赤ちゃんは、自分に注がれる愛情やケアを、「包まれるように感じている」と思います。「包まれるように感じる」ものは、他にもあります。その一つが、「自己」への囚われからの「自由」です。

    「つかむ」という営みは、もともと手で「つかむ」ことを意味していますが、その手を動かしているのは、「私」です。いいかえるなら、意図し欲望する「自己」(self)です。それは「自己中心的」「自己実現」といわれるときの「自己」です。したがって、「つかむ」という営みは、「自己」を顕わにします。
    「つかむ」という営みはまた、言葉で「つかむ」ことも意味します。「意味を把握する」というときの「把握する」がそれです。したがって、「理解する」「認知する」といった営みも、基本的に言葉で「つかむ」ことを意味しています。英語で「よく理解する」を意味するcomprehend(コンプリヘンド)という言葉がありますが、このprehend(プリヘンド)は、もともと「手でつかむ」という意味です。フランス語のcomprehendreも同じです。

    私たちは、言葉で「つかむ」とき、その言葉に囚われます。言葉で「つかめる」ものだけが実在し、言葉で「つかめない」ものは実在しない、と考えてしまいます。加えて、言葉で「つかむ」自己を確かなもの、と考えてしまいます。上田閑照の『非神秘主義』の言葉を借りるなら、「掴んだものに逆に掴まれる」ということが生じてしまいます。
    通常の教育において、言葉で「つかむ」ことは、とても大切ですが、よりよく生きるうえでは、言葉で「つかむ」ことを超えて、包まれるように感じることも、大切だと思います。ようするに、「自己」への囚われから自由になることも。

教育顧問    田中智志
Copyright(c) YAMANASHI GAKUIN ELEMENTARY SCHOOL. All rights reserved.