教育コラム 2020. 10.

透明な瞳

    私たちは、ふだん、自然を、物理的な物質、経済的な資源、あるいは政治的な領土として、意味づけていますが、自然は、一人ひとりが、心で感じるものでもあります。
    19世紀のアメリカの哲学者、ラルフ・ワルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 1803-1882)は、1836年に匿名で『自然』(nature)という本を出版しました。その本のなかで、エマーソンは、自然について、次のように述べています。

    「ほんのわずかな大人だけが、自然を見ている。‥‥‥自然を愛する人は、内に向かう感覚と外に向かう感覚をまさに調和させている。その人は、大人になっても、子どもの精神(spirit)を保ち続けてきた。‥‥‥森のなかで、私は、変わることなく、若々しい。‥‥‥森のなかで、私たちは理性に、そして信仰に立ちかえる。そこで私は、生を苛むものはない、屈辱も災悪もない、と感じる(眼を残しつつ)。自然は、そうしたものを修復できるわけではない。裸形の大地に立つとき、‥‥‥すべての卑しいエゴイズムが消えてゆく。私は、透明な瞳(eye-ball 眼球)となる。私は無である。私はすべてを見る。普遍の大いなる存在(Universal Being)の流動が、私をかけめぐる。私は、神の一部ないし一片である」。

    ここで、エマーソンは、超越的な「大いなる存在」を感じるためには、「独り」であるほうがよい、と論じています。「森」は、人を「独り」にする環境であり、「神」は、この「環境」と「理性」にともに通底する根源です。いいかえれば、「森」に象徴される環境としての「自然」と、「透明な瞳」に喩えられる心奥として「理性」は、ともに「大いなる存在」としての「神」に由来しています。

    思いだされるのは、現代のフランスの歴史家、アラン・コルバン(Alain Corbin)が著した『静寂の歴史』(Histoire du Silence)です。コルバンは、その本のなかで、古くから、人びとが「静寂」ないし「沈黙」(フランス語ではどちらもsilence[シランス])のなかで、つまり「独り」であることで、超越的なものを心で感じていた、と論じています。この「独り」は、いわゆる「孤独」から区別したほうがいいでしょう。独りは、たとえば、ソリスト(独演者)が自分だけで「音楽」に向かうように、超越的なものに向かうことだからです。

教育顧問    田中智志
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