教育コラム 2020. 11.

家庭的平穏

    「北軽井沢」と呼ばれる高原が、群馬県のはずれにあります。標高が1100メートルくらいで、宏大な森が広がっています。冬になると、夜も昼も、しーんと静まりかえっています。
    私は、その森のなかの山荘で、ときどき「独り」で過ごしますが、前回にふれたエマーソンとちがい、「大いなる存在」を感じることはなく、「エゴイズム」も消えていきません。それでも、古い書物をつうじて、過去の思想家たちと対話し、つながることはできます。

    現代のアメリカの教育学者、ジェーン・R・マーティン(Jane Roland Martin)は、こうした「独り」という在り方に対し、否定的です。彼女は、1992年の『スクールホーム』という本で、「エマーソンの透明な瞳という理想は、温かい血が流れる人間から心を切り離し、私たちを徹底的に矮小化された存在者に貶めている」と述べています(第5章Ⅱ)。
    マーティンは、エマーソンに「身体と心の分離」「他者からの隔絶」「応答責任なき自由」を見いだし、それらにかわる理念として「家庭的平穏」(domestic tranquility)を説いています(第5章Ⅱ)。彼女は、この家庭的な平穏をささえる「活動」を三つの言葉で表現しています。「配慮(care)、関与(concern)、つなぐ(connection)」です。

    マーティンとエマーソンの考え方の違いを、ちょっと整理してみましょう。まず、他者を〈超越する存在/生身の人間〉に分けると、エマーソンは超越する存在とのつながりを語り、マーティンは生身の人間とのつながりを語っている、ということができます。もう一つ、関係を〈贈与/呼応〉に分けると、エマーソンは、神が贈り人が与るという関係を前提とし、マーティンは、人が呼びかけ人が応えるという関係を前提としている、ということができます。
    このように考えると、エマーソンは、人が〈よりよく〉生きようとする基礎を、「理性」という人間性に求め、その「理性」の根源を超越者(神)に求めていますが、マーティンは、その基礎を、人間の活動に求めることにとどめています。人間性の根源を超越者に求めることは、形而上学的思考であるとすると、マーティンは形而上学的思考を避けている、といえます。
    とはいっても、マーティンの、すべての人を「家族」のように考えようという考え方は、キリスト教の説いた「隣人への愛」を想い起こさせますが‥‥‥。

教育顧問    田中智志
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