アウグスティヌスは、『自由意志』という本で、「「何を選んだか」と問われ、「何も選ばなかった」と答える人に、どうして従うことができるだろうか」と、述べています。アウグスティヌスは、4世紀終わりから5世紀初めにかけて活動した思想家です。
そのアウグスティヌスにとって、選ぶという行為は、生きつづけることを前提にしています。そして、生きつづけることは、他者にかかわりつづけることです。
この他者とのかかわりが、煩わしくてしかたがない、嫌で嫌でしかたがない、という人もいます。
たしかに、世の中には、人に暴言を吐く人もいれば、人の誤りを非難し、正義をふりかざす人もいます。どちらも、自分の考え方に閉じこもり、自分だけを大切にしよう、自分は正しいと思い込むことで、生じてくる暴力です。
そうした暴力は、たしかに嫌なものですが、なかなかなくなりません。しかし、そうなら、他者といっさいかかわらないようにしよう、と考えることは、まさに「意見」(ラテン語でオピーニオー)です。ネット上には、無数の「意見」が溢れかえっています。
私たちの「感覚」(ラテン語でセンスス)は、どうでしょうか。
他者とのかかわりが煩わしい、と感じている人は、「感覚において、静かさへ自然な願望をもっている」のではないでしょうか。
これも、アウグスティヌスの言葉です。アウグスティヌスにとって、「静かさ」(クイエティス)は、何も生じない状態ではなく、自分の不安や恐れをはるかに上まわるものです。それは、自分がこの世界に存在していることを感謝することです。
アウグスティヌスは、静かさを神への感謝に結びつけていますが、神を語らなくても、自分の存在を感謝することはできます。あの「意見」を棚上げしてしまえば。
私たちは、意見と感覚の重なりあいのなかで、生きています。そのなかでしっかり知るべきことは、他者とかかわりをもたないことと、静かさのなかで生きることの違いです。